京極夏彦『魍魎の匣』を読んだ|6年振りに京極の鈍器本に再挑戦

 2023年9月、つまり今月、京極夏彦の「百鬼夜行」シリーズの17年ぶりの新作長編『鵼の碑』が刊行されるようです。ということで、界隈はかなり盛り上がっています。

 

 

 かくいう私もミステリー小説好きの端くれとして、京極夏彦さんの名前はもちろん存じ上げていますし、デビュー作の『姑獲鳥の夏』は読んだことがありました。そのときはまだ高校生だった気がします。

 

 あの650ページくらいの分厚い本を読んで、最初に正直に思ったのは「そんなのアリかよ!」でした。私は当時からずっと本格ミステリ原理主義みたいなところがあるので『姑獲鳥の夏』のトリックにはあまり納得できませんでした。

 

 具体的な内容までは覚えていませんが、確か人間の心理的な面がどうのこうのという話をたくさんしていた気がします。その側面から言えば『姑獲鳥の夏』のトリックには一理あるのかもしれませんが、ほとんど反則技ではあるよなと思いました。

 

 でも、2作目の『魍魎の匣』は1作目以上に評判が良いと聞いています。いつか読もうと思っていたのですが、文庫で1000ページ超えという圧倒的なボリュームにおびえて、それから約6年間、手を付けることができないでいました。

 

 そして今年の夏になり、急に思い立って読んでみることにしました。最初の数ページには絵巻物に描かれた怪物の絵とそれに関連する古文が載っています。意味がわからないので読み飛ばしました。

 

 それから80ページくらいは、ある少女が主人公の話でした。ワトソン役である関口君が出てくるのはその後、京極堂が出てくるのは250ページあたりからです。ここまでで既に長いですが、そんなに長さは感じさせませんでした。

 

 アガサ・クリスティの『ナイルの殺人』は300ページくらいしないと殺人事件が起きなかったので、それに比べれば『魍魎の匣』は序盤からバラバラ殺人や線路転落事件が起きているので、テンションは高めと言えるかもしれません。

 

以下、京極夏彦『魍魎の匣』のトリックにほんのり触れている箇所があります。

 

 

 ただ、この後が長い。京極堂の話が長い。オカルトの分類の話を100ページくらいしています。しばらく後にも、妖怪「魍魎」が何のことを指しているのかはっきりしていないという話を100ページくらいしています。

 

 日本の歴史にも民俗学にも興味のない身としては、やはりこの部分は読むのに苦戦しました。ときどき京極堂自身も「テキトーなことを言っていただけだ」と自白したりするので、余計に何を読んでいるのだろうという気分になってしまいます。

 

 ただ、今回のトリックは前作よりも納得できるものでした。相変わらず、破天荒なものではあります。実現可能性はゼロでしょう。それでも、トリックの肝心の部分を心理面に頼らなかった分、私はこっちの方が良いと思いました。

 

 最後の京極堂の話もやはり長かったです。ほのめかしも多いので、真相が明かされる50ページ前には大体すべてわかります。まぁ、そこまで来たらもう読みますけど。

 

 本格ミステリとしては、やっぱりかなり危ういです。読み終わったばかりですが、バラバラ殺人の真相に至るロジックがあったかどうかは忘れてしまいました。最後もロジックがあるわけではなく、京極堂なりの直感を働かせて妥当な結論を導いたという感じがします。

 

 だからといって、ミステリとしての面白さが損なわれているわけではありません。ロジックが大事だと言っている本格作家の作品でも、ロジックの筋が通っているものはそんなに多くないですから。ちょっと飛び業を披露するくらいで全然良いのです。

 

 長い長いとは言いましたが、1050ページを読み切ってしまったのは事実です。読みやすいんですよね。文章が滑らかで。妖怪とか古めかしいものを扱っていますが、文章には古めかしさはなくて、読みやすさが最優先にされているように感じます。

 

 だから、鈍器本を作ることが許されているんでしょうね。こんなに厚い本でも、みんな全部読んでしまうから。上下巻に分ける必要もないのです。

 

 最近は、私も長い文章が好きになってきました。ついこの前も島田荘司の『眩暈』(700ページ)とM・W・クレイヴンの『ブラックサマーの殺人』(600ページ)を読んでいました。

 

 短い文章にはうんざりしています。X(旧Twitter)という短文SNSがありますが、あれは言い争いの巣窟です。それは、短文投稿しかできないせいで、背景情報も論理もろくに説明しないからだと思っています。

 

 日頃、短文で情報を摂取しすぎてしまうからこそ、長文の物語には癒されるのかもしれないなと、今回感じました。