今村昌弘『魔眼の匣の殺人』の別解~後期クイーン的問題は解けていない~

 本格ミステリーにおける後期クイーン的問題の話です。今さら蒸し返すなという人もいそうですが、良いじゃないですか。理屈をコネコネするのが本格ミステリーの楽しみ方です。

 

 そもそも「後期クイーン的問題」が何であるかについては別の記事で解説しました。今回は、今村昌弘の『魔眼の匣の殺人』を例にとって、後期クイーン的問題について私なりの考察をしてみたいと思います。なお、この記事は『魔眼の匣の殺人』のネタバレを盛大に含んでいます。未読の方は気を付けてください。

 

 

まず始めに感想

 せっかくなので、後期クイーン的問題に関しての議論を始める前に、『魔眼の匣の殺人』を読んだ感想をサクッと書いておきます。

 

 今村昌弘の『魔眼の匣の殺人』は、デビュー作でもある前作『屍人荘の殺人』から始まったシリーズ2作目です。今回も、クローズドサークルが扱われ、オカルト要素として予言者が登場します。

 

 超常現象的なものに見せかけるならともかく、このシリーズには本当の超常現象が出てきます。その点で、オカルト的な装飾を凝らしてはいるものの現実に起こり得ることしか扱わないジョン・ディクスン・カーや、あくまでも妖怪は人間の心理のせいで存在するのだと主張する京極夏彦とは根本的に異なります。今村昌弘の超常現象は、彼の小説の中では本物です。

 

 ゆえに、論理性を第一とする本格ミステリーにはそぐわないのではないかとパッと見には感じてしまいます。しかし、実際にはゴリゴリの本格です。論理へのこだわりは、他の本格作家に劣らないどころか、それ以上ですらあります。本書の登場人物は、主人公の剣崎&葉村コンビに限らず全体的に妙に理屈っぽいのですが、そのおかげでどこでも論理の応酬をやりあっていて、ギチギチの本格ものなんだなというのを常に感じさせてくれました。

 

 細々としたトリックもありますが、それ以上に終盤の畳みかけるような論理攻撃が凄い。本作の論理は、事件を解決するためではなく、本当に相手を攻撃する武器として使われているのが印象的で、とても面白かったです。

 

後期クイーン的問題

 私は、本格ミステリー界のトレンドにそれほど詳しいわけではないのですが、後期クイーン的問題に関する議論はもう2000年代頃に出尽くしていて、もう誰もやりたがっていないんじゃないかという気がしていました。新本格作家の皆さんも、そろそろ落ち着きたいのか、そんな泥沼みたいな議論をしたくないのかなと勝手に勘ぐったりもしてみました。

 

 ところが、今村昌弘は『魔眼の匣の殺人』において、真正面から後期クイーン的問題を持ち出しました。今村昌弘は、まだまだ新人から中堅になりかかっているくらいの人なので、熱量が違います。本書のギチギチの論理性からして、王道の本格ミステリーに挑んでやるんだぞという気概に満ちています。

 

 後期クイーン的問題への直接の言及は、第5章2節(単行本では292ページ)にあります。そこには、王子が剣崎からの追及を免れるために「犯行現場に残された証拠が本物か犯人の用意した偽物か、判断が付けられない」という台詞を放ちます。これは、後期クイーン的問題を端的に表した文章です。特に、エラリー・クイーンの『ギリシャ棺の謎』に関する批評でよく目にする言説です。

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 これがどういう意味かということについては、上記の記事で解説しているので、ここでは置いておきます。探偵役の剣崎は、この王子の発言の直後に反証を示します。つまり「犯行現場に残された証拠が確実に本物であり、偽物ではありえない」ということを論理的に示したのです。

 

 この論理が正しいのであれば、めでたしめでたし。後期クイーン的問題は解決したことになります。でも、本当にそうでしょうか? ここで、改めて検証してみます。

 

 

剣崎の論理

 ここでの剣崎の論理を確認してみます。剣崎は、次の推理を披露して王子が犯人であると指摘します。

 

十色殺害現場が荒らされていたのは時計の異変を隠すため

→しかし時計盤には破損はなかった

→ならば銃弾は短針と長針が重なったところに当たった

→つまりその時刻に唯一アリバイがない王子が犯人である

 

 針が2本重なっていれば銃弾が透過しないという事実が事前に読者にわかるかどうかは甚だ微妙ですが、その点は一旦無視します。王子は、この剣崎の論理に対して「2本の折れ曲がった針が荒らされた部屋にあったは、探偵役にこのような論理的帰結を導かせるためではないか」と反駁します。

 

 剣崎は、その反論として、部屋が荒らされていたのはこれ以外の理由以外にあり得ないことを示します。それは、次の通りです。

 

部屋には弾痕がどこにもなかった

→十色が部屋で死んだのは血痕によって明らかで、意図的に銃を時計に向けて撃つことは不可能なので、銃弾は針が二重になった場所に偶然に当たったのだとしか考えられない

→ゆえに2本の針が折れ曲がっていたのは犯人の作為ではなく犯罪の意図しない結果である

 

 剣崎の推理は、一見すると筋が通っているように見えます。でも、筋が通っているように見えるのは、作家の技量のおかげかもしれません。剣崎の推理では考えられていなかった可能性は本当に存在しないのでしょうか?

 

剣崎の推理への反駁

 この論理は「犯人が意図的に2本の針が折れ曲がっている状況を作ることができた」ということを論証することによって崩れます。この状況の作り方は2パターンあります。一つは、銃弾を意図的に時計の針に当てること。もう一つは、銃弾を部屋のどこにも当てないことです。

 

 前者は、小説内では銃弾の予測などできないから不可能だと剣崎が断定しています。技術的な問題なので、私には如何とも言い難いのですが、これは信じるとしましょう。剣崎が嘘を吐く必要もないので、ひとまず剣崎の発言も地の文と同じくすべて真実として扱うものとします。

 

 後者は、考察の余地があります。部屋の中で銃を発砲しながら、銃痕が残らない方法があるのでしょうか? なお、部屋の外で発砲された可能性に関しての剣崎の推理はあっさりしてますが、十色の銃創はかなり酷いものなので、確かに部屋の外側に血痕がないのなら、銃は部屋の中で十色に向けて発砲されたものとして構わないと思います。

 

 私は、この文章をここまで書いて、それでは一体どのような方法があるのだろうと今さら考え始めました。ほとんど屁理屈のようなメタ的な解法ならばあるはずなので、そうしようかと思っていましたが、意外と真っ当な解答が今思い浮かびました。

 

 銃弾は、ベッドに当たったのです。ベッドであれば、表面積が大きいので偶然当たる確率も少なくありませんし、意図的に当てることも可能です。ベッドは衝撃吸収力があるので、おそらく銃弾も貫通しません。

 

 そして、本書の第3章10節序盤(単行本201~202ページ)には「部屋中に引き裂かれた布団や彼女の持ち物の着替えや色鉛筆、壁に掛かっていた時計もバラバラに砕かれて散乱していた」という記述があります。このことより、犯人が、銃痕を隠すために布団を引き裂いたのだとも十分に考えられます。ベッドの状態に関しての記述はなかったと記憶していますが、そのような部屋の状態であればベッドもズタズタになっていたとしても不自然ではありません。

 

 犯人の行動としてはこうです。犯人は、偶然あるいは意図的に銃弾を布団およびベッドに当ててしまいます。そして、犯人は時計の針を使ったアリバイトリックを思いつき、2本の針を折り曲げて偽の証拠を用意します。また、部屋を荒らすことで、ベッドの銃痕を誤魔化し、偽の証拠から論理的帰結を導くための状況もセッティングします。これで完了。

 

 これで、剣崎の推理は崩れました。2本の折れた針が偽の証拠ではないと言い切ることはできません。ただ、ここで本当に言いたかったのは、この状況でも「犯行現場に残された証拠が本物か犯人の用意した偽物か、判断が付けられない」という命題が真であったということです。すなわち、この場合も、後期クイーン的問題は未だ解けていなかったのです。

 

 

良い本格ミステリーとは?

 私は、このように剣崎の推理に穴があるからといって『魔眼の匣の殺人』を批判しようとしているわけではありません。むしろ、真逆です。私も、本作を読んでいる間は、すっかり剣崎の推理に納得させられていました。その点において『魔眼の匣の殺人』は素晴らしい作品です。

 

 個人的に、後期クイーン的問題は本質的に解けることのできない問題だと思っています。つまり、どんな状況でも、探偵の指摘した真実が真実ではない可能性を捨て去ることは不可能だと思っています。だからこそ、本格ミステリーの作家に求められているのは、自分の作った論理を納得させる技術ではないかと私は考えています。

 

 もし、本当に推理作家が唯一無二の真実を暴き出すことができるのであれば、本人が現実の世界で探偵をやれば良いではないかという話になります。そうではないのです。推理作家は、自分の小説の中の世界で構築した論理を読者に納得させれば良いのです。それが、真実であるか否かは重要ではありません。なぜなら、本質的に真実であるかどうかを決めることはできないのですから。