「真実はいつもひとつ」ではない~本格ミステリの苦悩『後期クイーン的問題』を解説~

 最近、後期クイーン的問題について考えることがよくあります。そこで、今回は本格ミステリ界において大きな論争の種になってきた「後期クイーン的問題」を自分なりに解説するとともに、自分が最近考えていることを書いてみたいと思います。

 

 

 

後期クイーン的問題とは

 後期クイーン的問題とは、アメリカの推理作家エラリー・クイーンの作品でしばしば扱われていたテーマであることから名づけられた本格ミステリーにおける問題です。

 

 端的な例は、すでにクイーンの前期の代表作である国名シリーズにおいても現れます。それは、あるシンプルなアイデア「偽の証拠」を持ち出したことによって生じました。

 

 偽の証拠とは、犯人が捜査陣を欺くために意図的に仕込む証拠のことです。その概念自体はわかりやすいものです。しかし、この「偽の証拠」は、本格ミステリ界の大きな矛盾を指摘するきっかけになってしまいました。

 

 その問題とはこういうものです。小説の中の探偵が、ある証拠を発見したとします。このとき、探偵には果たしてその証拠が本物の証拠か偽の証拠か見分けることができるのでしょうか?

 

 いやいや、そんなのは大した問題ではない。犯人がその証拠を仕込んだかどうかがわかれば解ける問題ではないかと、直感的には思えます。しかし、気を付けなければならないのは、これが小説内の話であるということです。小説においては、本物の証拠も偽物の証拠も作者が仕込みます。よって、構造的には本物の証拠も偽物の証拠も全く同じものです。

 

 もう少し丁寧に言い換えてみます。まず、証拠が本物だった場合です。このとき、その証拠は作者が仕込んだものです。その目的は、探偵が真の犯人に辿り着けるようにするためです。

 

 次に、証拠が偽物だった場合です。このとき、その証拠は犯人が仕込んだものです。その目的は、探偵が偽の犯人に辿り着けるようにするためです。ただし、犯人の行動はすべて作者が操っているので、実際には偽の証拠も作者が仕込んだものであり、その目的は探偵が偽の犯人に辿り着けるようにするためです。

 

 となると、小説の探偵には、その証拠が本物であるか偽物であるかを確かめる術が存在しません。なぜなら、現実では偽の証拠は犯人によって仕込まれるものであるにも関わらず、小説の中では偽の証拠も本物の証拠と同じように作者によって仕込まれてしまうからです。

 

 これが、後期クイーン的問題の導入になりました。さて、ここまでの議論の「証拠」という言葉を「犯人」に置き換えてみてください。全く同じ議論が成り立ちます。つまり、本質的に小説内の探偵には本物の犯人と偽の犯人を区別することができない可能性が出てきました。もし、そうであるとするなら、これは推理小説の存在意義に関わる重大問題です!

 

 

後期クイーン的問題の取り扱い

 後期クイーン的問題は、「問題」なので、まだはっきりと答えが決まっているわけではありません。この問題の扱いに関しては大雑把にわけて2つの派閥があります。1つは「本物の犯人と偽の犯人を区別することはできる!」と頑張る人たち。もう1つは「本物の犯人と偽の犯人を区別することはできないかもしれないけど、無視しても構わないのではないか」という人たちです。

 

 前者は、頑張ってくださいとしか言いようがないですね。実際、成功している例もあります。最近では、今村昌弘の『魔眼の匣の殺人』がそうでした。この作品の第5章の2節には「犯行現場に残された証拠が本物か犯人の用意した偽物か、判断が付けられない」という記述がありますが、これは明らかに後期クイーン的問題を指したものです。関連記事:今村昌弘『魔眼の匣の殺人』の別解~後期クイーン的問題は解けていない~ - 第三のブログ

 

 後者の考えは、要はこの問題について考えすぎるのは意味がないというものです。本質的に本物と偽物を区別することができないのならば、そのことに拘泥するのではなく、そういうものであると受け入れるべきだ。推理小説とは、あくまでも作者が用意した真相に辿り着くのを楽しむジャンルである、というわけです。

 

 どっちの考えを取るかは、完全に個人の趣味に寄ります。論理的な厳密性にこだわりたい人は前者の考えに興味を持つのかなと思いますが、世間的には後者の考え方の方が受け入れられそうな気がします。

 

現実の後期クイーン的問題

 ここまでは、これまで行われてきた議論をざっくりまとめたものでした。ここからは、私自身の考えになります。個人的には、後期クイーン的問題は一般的には解くことができないと思っています。

 

 つまり、どのような場合であっても、探偵が指摘したものとは別の真実が存在し、それらはどれが本物の真実であるかを論理的に導くことはできないというわけです。今村昌弘の『魔眼の匣の殺人』にしても、後期クイーン的問題を解消しているように見えて、実際には解消できていないことを次の記事で示しました。

thirdblog.hatenablog.com

 

 ただ、私は思うのですが、後期クイーン的問題を本格ミステリの世界に限定するのはもったいない。後期クイーン的問題は抽象的な論理問題なので、他の場面にも適用できるはずです。

 

 要は、後期クイーン的問題は、真実と偽物を見分けることが本質的に不可能であることを示した問題です。それは、現実世界にも適用できます。次のとてもシンプルな例を考えてみるとわかりやすいです。

 

 ある殺人事件が起き、唯一の証拠が現場に残されていたDNAだとします。このDNAは、確かに犯人のものかもしれません。あるいは、犯人が捜査側を欺いて他の者を指し示すために残したDNAかもしれません。現場にはDNAしか証拠がないので、どちらであるかを確かめることはできません。

 

 さらに、他の多くの問題に繋げることもできます。数年前からフェイクニュースという言葉が出てきましたが、これこそ正に真実と偽物の事実に関する話です。最近は、AIの台頭により本物の画像と偽物の画像の見分けも付かなくなってきました。

 

 そういったように、後期クイーン的問題は本格ミステリだけの問題にしておくにはもったいないほど、拡大の余地があります。新本格ミステリは、後期クイーン的問題のせいで停滞したという説もありますが、実際には後期クイーン的問題は本格ミステリを新たなフェーズに導くことのできるテーマです。だから、私は引き続き後期クイーン的問題について考える日々を送り続けることになると思います。

 

thirdblog.hatenablog.com