自由な解釈の余地を残す映画『TAR/ター』の禁断の心地良さ

 ターを観た。ケイト・ブランシェットの映画『TAR/ター』だ。英語ならともかく、日本語だと短すぎて、潔が良すぎるタイトルのター。腹の底から声を出して言いたくなるタイトルだ。

 

 ずっと観ようと思っていてやっと観た。噂に違わぬ面白さだった。真面目な評論はとうに出尽くしていると思うし、自分にはそんなものを書くつもりもない。ただの所感を書き残しておきたいと思った。

 

天才指揮者の世界

 そもそも、オーケストラの指揮者という仕事が、自分にとっては全く縁遠いものだった。クラシック音楽も聞かないし、自分で音楽をやろうと思ったこともない。小中学校でやらされる合唱も大嫌いだった。

 

 正直、指揮者なんて、棒を適当に振っているだけだろうと思っていた。たぶん、そうい思っている人は少なくないと思う。映画の中でも、そう思われがちだという前提で話が進んでいく。だから、むしろ指揮者のことなど全然知らなくても世界観に入って行けるように、丁寧な作りになっている。

 

 指揮者はただ棒を振っているだけではない。同じ曲、同じオーケストラであっても、指揮者が違ったら音楽も違うものになる。そのことを、映画では実際に見せてくれた。とてもわかりやすくて、指揮者の存在意義みたいなものがよくわかった。

 

 自分の知らない世界を見せてくれるのが楽しい。クラシック音楽の世界など、今後も自分が関わることはないだろう。でも、あの格式の高さに全く憧れないと言ったら嘘になる。クラシック音楽がわかる人間になれたらカッコいいと思う。この映画は、ちょっとそんな気分を味わわせてくれる。

 

 指揮者が、作曲者の生涯なども踏まえて指揮をしているというのが面白かった。色々な知識やテクニックが必要なのだろう。だから、その世界には「天才」だっているのだ。まぁ、それは厳密は天賦の才ではないから天才とは言わないのかもしれないが、努力にしろ才能にしろ、上手くできる人とできない人がいるのは確かだ。

 

天才でも日常

 リディア・ターは、人々から「天才」と呼ばれる人物だ。しかし、映画で描かれるターの日常は、思っている以上に「普通」だった。

 

 確かに、アシスタントはいるし、練習中の姿はさすがといった雰囲気がある。でも、一歩外に出れば、事務的なやり取りをしなければならない。パートナーとの関係も、それほど良くはなさそうだ。作曲も順調に進んではいない。「天才」であっても、雑務に追われるし、日常で上手くいかないこともある。

 

 こういうリアルな「天才」が描かれているのが、個人的にはとても面白かった。フィクションの世界では、往々にして、あまりにも非現実的な天才が登場する。フィクションだから、別にそれでも全然構わないのだが、歪んだ天才キャラクターばかり見せられるのもつまらない。

 

 物理学や数学をやっている人間というのは、特に天才キャラクターとして描かれることが多いと思う。伝記映画であっても、アラン・チューリングやジョン・ナッシュは、変わった人物として描かれていた。

 

 事実、数学や物理学をやっている人の中には、その分野に関してとても頭の良い人がいる。おこがましいことを承知でいえば、自分自身、物理学を専攻していて、他人から頭が良いと思われることがしばしばある。だが、もちろん自分の日常も思考も、フィクションの中の「天才」とは全然違う。全く普通のものである。自分が知っている限り、物理学をやっている人間に、そこまで変な人はいない。せいぜいちょっと変な人だ。

 

 そういう点で、リディア・ターという「天才」は、とても真実味があった。こういう「天才」はいる。普通に日常生活を送ることができるし、大きなトラブルを起こすわけでもない。ただ、自分が色々なことを難なくできてしまうゆえに、他人には若干厳しくなってしまうこともある。

 

 「天才」は、自分が「天才」だと思われていることを自覚しているものだ。大抵の場合、謙遜して自ら言うことはないが、自覚はある。リディア・ターも十分自覚している。むしろ、自分ではあえて言わないが、自分が「天才だと思われていること」をプロモーションに活用している節がある。その点も上手い。頭が良い。

 

解釈の広大さ

 この映画では、ターが悪人かどうかに関して、まったく判断を下していない。炎上した件のうち、講義中の動画は悪意を持って編集されたものであることがわかっている。しかし、自殺した学生にパワハラをしていたかもしれない疑惑は、事実の可能性が濃い。セクハラの件は、個人的には無実の方に傾いてはいるが、ターのパートナーがあれほど疑惑の目を向けているのを見ると、どうも無実とも信じきれない。

 

 でも、そうやって事実かどうかわからないことであっても、世間が責め立てるというのは、もの凄くリアル。こうやって、才能のある人物のキャリアが一気に潰されるのを、この数年間で何回も見てきた。

 

 そういったキャンセルカルチャーが正しいのかどうかは自分にはわからない。疑惑が事実なら責められるべきだが、それは一般人の役割ではない気もする。疑惑が疑惑に過ぎないのであれば、やりすぎな気はする。でも、やっぱり事実の場合が少なくないのだ。

 

 大抵の疑惑は、事実か虚偽かがそこまではっきりとわかるわけではない。ターの場合も、疑惑のいくつかは明らかに虚偽だが、いくつかは高確率で事実で、いくつかは真偽が不明のままだ。

 

 この映画のどっちつかずの姿勢が、かえって清々しく感じた。昨今の映画は、キャンセルカルチャーの対象になりそうな悪役が登場し、そいつの疑惑が事実だから成敗されるという内容の作品が多い。実際に映画の中では成敗されなくても、成敗されない世の中って良くないよねぇ、という明確なメッセージを訴える作品も多い。

 

 そういった作品は、社会的には正しいのだろう。ただ、作品としては、昔からあるものと同じ勧善懲悪ものである。どストレートな勧善懲悪ものだ。だから、ぶっちゃけて言うなら、面白くはない。伝えられるべき物語だとしても、伝えたいメッセージがストレートすぎて、観客に一つの見方しか許さないような作品には、深みがない。

 

 余白が必要なのだと思う。SFやファンタジー作品を例に挙げればわかりやすい。『スター・ウォーズ』や『ロード・オブ・ザ・リング』は、広大な世界観が作りこまれていて、観客が自由に楽しむ余地が十分にある。物語は勧善懲悪ものだけれど、世界観とキャラクターは豊富で、色々なところに目を向けることができる。

 

 ドラマ作品の場合は、世界観とキャラクターがジャンル作品ほど豊富であることはないから、物語に余白があると良い。『TAR/ター』には、広大な解釈の余地が残されている。それが良い。

 

 リディア・ターの一連の顛末を見て、自分がやってきたことの報いを受けただけだと思う人もいるかもしれない。あるいは、これほど才能のある人が、疑惑だけでこのような扱いを受けるのは不当だと感じる人もいるかもしれない。もしくは、その中間ぐらいの気持ちで漂っている人もいるかもしれない。自分は、今は3つ目の領域にいる。

 

 現実社会のケースでは、両極端の意見ばかり目にすることになるし、どっちにしても感情的すぎて辛い。でも、これは映画なので、そこまで感情的になりすぎることはない。中間領域にいても気まずさは感じない。なんなら、どっちに揺れることもできる自由さに心地よさすら感じる。

 

 それは無責任な鑑賞の仕方なのかもしれない。でも、自分は批評家ではない。映画は大好きだが、それでも所詮は映画である。生活と心に余裕があるときに楽しむエンターテインメントなのだ。わざわざ生々しすぎる現実のニュースと関連付ける必要はない。せっかくのフィクションなのだから、自由な思索をしたって良いではないか。